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2011年07月24日

『わたしたちの夏』への言葉

正直、ラスト30分の凄さには圧倒された。映像と音を獲得し血肉となった映画は人間と同じように生々しい。福間健二の最高傑作。いや、福間さんはまだまだ映画を作っていくことだろう。でもこれを越えるのは相当難しい。福間さん、今まで映画を作り続けてきて本当に良かったね。
瀬々敬久(映画監督)



女の汗も男の涙も、この世の言葉もあの世の光も、揺れる葉もペットボトルの水も、すべてが等価な夏……わたしたちの夏。福間健二の新作はそんな「夏の映画」であり、そんな「わたしたちの映画」だ。世界を見つめるように、見つめるべきだろう。そして、聴くべきだろう。すべてただ等しくあるものたちの氾濫を。
安藤尋(映画監督)



白い服を着た女の人がフェンスにもたれてるシーンで、ドキッとした。死の匂いがしたのだ。怖かった。怖くて、ドキドキしながら映画に引き込まれた。死者と生者が平然と戯れているさまに、ワクワクした。
いまおかしんじ(映画監督)



監督にとって最も身近にいる人たちと最も身近な場所で撮られた作品。だけれどもこの新作には、個人映画の域を遥かに超越した懐の広さが現前している。『わたしの夏』ではなく『わたしたちの夏』。ヒロインが二人だから「わたしたち」なのではなく、作品の孕む全人類的切実さゆえの「わたしたち」の映画。監督・福間健二の新境地を見た思いだ。
暉峻創三(映画評論家)



一通りの経験、何色かの恋愛。一人の休日の過ごし方も上手になって、なにも期待してないけど絶望もしていない。その気になれば掴める幸せもあるけれど、流れにまかせて来し方行く末を思う。そんなアラフォーのヒロインをしなやかに体現する吉野晶が素晴らしい。急にたどりついてしまう、ほがらかで、ふくよかな、涙を隠さなくてもいいところ。渇いた喉と心を一口の水が潤すように、「きみたちは美人だ」と監督が言っている。
山アはな(シネマルナティックを守る会)



エンディングロールに捲かれながらひとつふたつ、声が聴こえた。劇中に朗読され皮膚に刺さる「きみたちは美人だ」という声を捩り、言葉というものであることへ果敢な文字の大きさと小ささが影として重なり、ひとつにみえた。そこに体温があり、かつて形があり、もういちど歩くことのなかったひとりや、あなたのために手を触れて伝える声を、聴いたのだろう。地の芯が熱くなる。
藤原安紀子(詩人)



福間健二の映画に出てくる人間は男女を問はず全員ニートだ。それは是非もなくいいものだ。彼らの輪の中にいると、ふと、違うことを考えていたり、何かを発見したりする。街灯やお祖母ちゃん家の庭やディラン・トマスの詩集に心を奪われて、気が付くとプールや教室や公園で、彼らの傍らに突っ立っていたくなる。                      
鎮西尚一(映画監督)



『岡山の娘』のみづきちゃんもそうでしたが、『わたしたちの夏』も、女性たちのたくさんの表情が豊かで印象に残っています。監督の、女性の中にあるものをみつめるやさしさ、愛なのかな? ラストのふたりのシーン、あたたかいきもちになって見終えました。そう、映画の中に温度やにおい、そういう生きてるよー!ってもの(死んでいくものも含めて)を感じました。わたしは感覚的なものの方が入ってきやすいので、この映画、大好きです。
木下ことり(主婦)



これは動く油絵だ! 中平卓馬の『なぜ植物図鑑か』を彷彿させる。コマの前後に織りなす映画的人間模様などは、シナリオに書くほど無意味であろう。千景の裸は美術館の中を走るキッチュなオブジェ。 サキの瞳、庄平の涙はチューブからハミ出た絵の具。 音楽・撮影・編集の三位一体の映像は近年観たことがない。日本にもゴダールがいたとは……。
杉村重郎(アニメプロダクション勤務)



女と女が、男の死によって相交わる物語に生の重みが込められていた。福間健二監督が作り出す、夢とうつつの狭間には、世界が生きるに足りる場所であることを、証明しているような安らぎと美しさがある。
小谷忠典(映画監督)



心の渇きを満たすために声をかけ続けてもほとんど返答はなく、永遠の片思いだ。奪われ続けた者たちが取り戻そうとするのは儚い幻。あれは確かにあったという感覚。誰も取り返すことの出来ない夏を、この映画は死人と横たわって回想している。
小野さやか(映画監督)
posted by tough mama at 13:05| Comment(1) | 『わたしたちの夏』への言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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